昭和19年8月13日、奄美大島加計呂麻島で島尾敏雄隊長は特攻戦発動の信令を受けた。木製ボートの先端に250キロ爆弾を積んだ特攻艇「震洋」。決して生きては帰れない運命を担った隊員は52人。島尾隊長は極限の日々を過ごす南島で、島の娘・ミホと恋におちていた。ミホは「震洋」発進の命令が下ったら基地の港の出口・呑之浦に身を投じて自決する覚悟でいた。2016年、戦後71年を迎え、太平洋戦争を知る者がゼロに近づいていく。時代のバトン-。父母たちの軌跡を島尾伸三さん家族がたどりながら、戦争の悲惨さ、平和の尊さを改めて考えました。
母の特攻~死を覚悟した島尾ミホの8月13日~
【島尾家の人々】
東京で暮らす写真家の島尾伸三さんと娘の真帆さん。久しぶりに母のふるさと奄美に帰ってきました。父は小説家の島尾敏雄。戦後文学の金字塔を打ち立てました。また母のミホさんもふるさと奄美を題材にした作品を出した小説家です。
【震洋部隊】
奄美大島本島の南にある入り江の多い加計呂麻島。海上タクシーを使い細長い入り江になっている呑之浦に入ると横穴が見えます。昭和19年に掘られた長さ30mほどの穴です。
太平洋戦争末期、日本軍は戦局が悪化するなか最後の戦術として搭乗員ごと敵の船に体当たりする特攻隊を編成しました。
昭和19年11月、加計呂麻島の呑之浦に船で特攻する部隊がやって来ました。第18震洋隊186人。隊長は伸三さんの父、島尾敏雄です。
敗色の色濃い日本最後の切り札として極秘に開発された特攻艇は「震洋」と名付けられました。長さ5m余りのベニア板製ボードに250kgの爆弾を積んで敵艦に体当たりしようという物でした。
【ミホとの出会い】
部隊が駐屯した押角集落の小学校教諭ミホと島尾隊長は手紙を機に愛を育んでいきました。集落では、ミホが作った「島尾隊長の唄」が流行っていました。
【特攻出撃命令】
昭和20年、戦局はますます悪化、鹿児島本土や加計呂麻島も空襲を何回も受ける中、特攻の日が近いと皆察知していました。
8月13日夕方、部隊に特攻出撃命令が出され即時待機状態に入りました。それは最愛の人の死を意味します。島尾隊長がミホさん宛てた手紙には「お前は余の最愛無二の妻なり…」と書かれていました。
ミホさんは母の形見の喪服をつけ、短剣を握りしめ、特攻基地まで辿りつきました。
「征きませば 加那が形見の短剣で 吾がいのち綱 絶たんぞとおもふ」ミホさんも自決する覚悟でいました。
しかし、なかなか出撃できない隊員たちはいらだっていました。そして迎えた8月15日、発進命令は遂に下りませんでした。
【呑之浦を訪れる】
伸三さん親子は両親が眠る呑之浦を訪れました。特攻基地があったことを記念して特攻艇「震洋」のレプリカがあります。島尾敏雄文学碑の穴の奥には、特攻隊の隊長室がありました。そして今も両親が親子を見守っています。
「母の特攻」ドキュメント九州で、8/28(日)17:00~再放送します。